私には子どもがおります。言い換えれば子どもを授かっています。
子どもを授かることを何回経験しても、母親の偉大さと「いのち」の不思議を感じざるを得ません。そして産まれてきてくれると、ほっとすると同時に親の責任を改めて痛感します。
私は文頭に書いた「授かる」という言葉がとてもいい言葉だと思っています。簡単に言えば「大切なものを与えられる」という意味ですが、私たち自身や私たちの身の回りのもの全てが実は「授かりもの」だと思います。
一番大きな授かりもの
それは「いのち」だと思います。私自身の全ての根源にあるもの、それは「いのち」です。「いのち」がなければ、家族と話をすることも、友だちと遊ぶことも、病気を心配することも、未来を考えることもできません。「いのち」は大きな授かりものです。しかし、私たちは自分の「いのち」があるだけでは生きていくことはできません。たくさんの私の「いのち」を支えてくれる人やものがなければ生きられません。それら一つ一つも大切な授かりものだと思います。
「いのち」を授かった私。その大切な「いのち」を今まさに生きているということです。
「いのち」の不思議
産まれたばかりの赤ちゃんを見ているととても不思議です。今まで、呼吸せず母親の胎内で過ごしてきた赤ちゃんが、産まれてすぐに呼吸をし、お母さんのおっぱいを探し始めます。何も教えていないのにです。何を思い、何を感じているのか。見ていて飽きません。その不思議な「いのち」を私も生きています。
考えてみると私の「いのち」はとても不思議に満ちています。先祖が出会わなければ、元気でいなければ、私は生まれてきていないからです。両親だけを考えれば2人ですが、祖父母になると4人。もう一つ遡れば8人です。1代=2人、2代=4人、3代=8人、4代=16人、5代=32人、6代=64人。7代=128人、8代=256人、9代=512人、9代遡ると1代から9代までのご先祖を合わせて千人を超えるということになります。
生きる時代も、生きる環境も、全てが異なる父母から恵まれた「いのち」。この「いのち」が私の「いのち」であって、全ての「いのち」が繋がっていると思うと、不思議に思えてなりません。いろいろな時代でいろいろな苦労の中、大切にひとりの「いのち」を育てて下さったのでしょう。その「いのち」が私に今繋がっているのです。
私しか生きることができない私のいのち。誰にも変わってもらうことはできません。今を精一杯生きさせて頂きましょう。