情報社会を生きる私たちの身の回りには様々な迷信があります。
情報社会で得てしまったもの
現代社会を生きる私たちはたくさんの情報を瞬時に手に入れることができるようになりました。と、同時に情報の正誤を自分で判断しなくてはならなくなりました。まぁこれは昔からの「噂話」と同じと思います。
一方で私たちはたくさんの情報の中で、「自分が知識人であるとの勘違い」と「人間的弱さ」を手に入れてしまったような気がします。
私の勘違い
「自分が知識人であるとの勘違い」は、情報を手に入れる簡単さからさも自分が知識を持っているかのような錯覚に陥ることです。情報を求められた瞬間から情報を得るまでの時間、それを活かすまでの時間。この一連の短い時間の中で情報の正誤を自分で判断しなくてはなりません。短い時間の中で正誤の判断を正しく行うのは非常に難しいでしょう。
私の人間的弱さ
では、「人間的弱さ」とはどういうことでしょうか。私たちは情報社会の中で「迷信」を次々と仕入れることができます。その「迷信」に振り舞わされ、不安になったり、行動が制限されているのではないでしょうか。オーラやパワースポットなどスピリチュアルな物が定期的に流行るのも、心から信じてはいないけど、何かそういう不思議なものに魅了される私たちがいるのかもしれません。これらが「人間的弱さ」ではないでしょうか。
「迷信」とは
「迷信」とは、「人々に信じられていることのうちで、合理的な根拠を欠いているもの」を指します。私たちお坊さんは合理的な根拠を仏典(お釈迦様が説かれた教え)としているわけですが、それも違う立場(違う宗教)から見ると合理的な根拠だと言えないかもしれません。
しかし、明らかに合理的な根拠を欠いているものもあります。一番分かりやすいのは、合理的な根拠が「特定の人間」である場合や「日本語など文字的な理由」である場合などがあります。
「特定の人間」である場合は、その人の環境・状況が変化するとおっしゃることも変わります。これは私たち人間が常に変わりゆくものだからです。変化しない人間はいません。だからこそ危ういのです。
「日本語など文字的な理由」である場合は、例えば4や13がつくものは不吉であるとか、元々の理由が語呂合わせである迷信も数多くあります。
他にも、生まれた年や星座、持ち物など数えれば切りがありません。